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裁かれる闇 ポル・ポト派幹部初公判<中>生存者として正義求める チュン・メイさん(79)―連載 

 「収容所に連れてこられると、身長を測り、写真を撮られました。服を脱がされ下着だけにして、目隠しをされ、後ろ手に縛られました。それから狭い独房に押し込まれました。ここ022番が私の部屋でした」

 もう何百回も話してきたのだろう。それでも1970年代後半のポル・ポト政権下、1万5千人ともいう膨大な自国民を犠牲にした「トゥールスレン政治犯収容所」(通称S21、プノンペン)を語るとき、目が潤む。

 尋問という名の拷問は12日間続いた。「おまえはCIAか、それともKGBのスパイか」。普通の国民が、そんな諜報(ちょうほう)機関の名前さえ知るはずがない。耳から電気を流す拷問。2回失神した。殴打から逃れようとかばった手の指の骨が折れた。はがされた足のつめ。今も右の耳は聞こえず、左目は見えない。
  

 技術者だった。1975年、クメール・ルージュの軍がプノンペンに入ると強制移住が始まった。その途中で子どもの一人が死亡。移住して1週間後、「技術者が必要」として、再びプノンペンに戻された。国民服を作っていた工場で、ミシンの修理などを行った。

 78年10月28日、突然拘束。身重だった妻もその1週間後、別の収容所へ。残された2人の子どもの行方は今も分からない。

 「足を動かすと鉄の足かせの音がする。脱走する気かと殴打されるので、寝るときも身動きできなかった」「処刑は夜。午前0時までに処刑場に連れて行く。午前0時を過ぎると、今日も生き延びた、と思いました」

 翌79年1月に解放。末期には数百人単位で連日処刑が行われた中、奇跡的に生き残ったのは7人だけといわれる。ポル・ポトの肖像画を描いていた画家や、メイさんのような技術者だけだった。

 収容所の元所長、カン・ケ・イウ被告(67)の裁判では、生存者として証言に立った。人間としての尊厳を踏みにじられた、これらの苦しみを語り、公正な裁きによる正義の実現を求めたのだ。

 「私に直接手を下した者も、上から命じられただけ。もう復讐(ふくしゅう)する気持ちはなくなった。でも被告には、私が受けたこと、ここで起きたことの責任を取ってほしい」

 解放後、逃げ惑っている途中、偶然妻と再会した。生まれたばかりの子どもを一晩だけ抱いた。翌日、妻は目の前で射殺された。

 「いくら言っても死んだ者は戻ってこない。私にできるのは事実を語り、カンボジアの若い人たちに知ってもらうこと。二度とこんなことが起きないように」

2010年07月26日西日本新聞朝刊

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