半田スカラシップ・カンボジア遊学生企画 レポート
大学4年生になり、就職活動がひと段落したタイミングでこのカンボジア遊学生の募集を知った。これまで蓋をしていた海外への好奇心が溢れ出し、私の心の針が右に左にビビビッと振れたのがよく分かった。
私を大きく変えたのは高校時代、佐賀県の2020年東京オリンピックのホストタウン事業の一環で訪れた島国フィジーだった。この国は発展途上国である一方、幸福度が高い国として知られている。「ケレケレ」という、持っている人が持っていない人に与える共有文化が深く関わっていると考えられている。ドラえもんに登場するジャイアンの『お前のものは俺のもの』という名言を、とても柔らかくしたような考え方だ。フィジーの人々は日々この精神を持って、お互いに助け合いながら生活を営んでいる。
訪問した現地の小学校ではランチタイムになると机を寄せ、家で作ってもらった弁当や売店で買った食べ物を広げていた。中には家庭の事情で昼食を持ってきていない子もいたが、持っている人が一口ずつあげてみんなで食事を楽しんでいた。また、クラスで定規を持っていたのはたった1人だった。算数の授業のとき、先生が黒板に大きな定規で真っ直ぐな線を引いた。彼は自分のノートに線を引き終えると、クラスのみんなに定規を貸し始めた。「ケレケレ」は彼らの生活の中にすっかり溶け込んでいた。幸せは物質的な豊かさだけで決まるものではないことを学び、フィジーの子どもたちの自然な優しさに何度も胸を打たれた。
フィジーで学んだ「ケレケレ」の精神は、7年経った今も新しいことに挑戦する原動力として心の中に息づいている。私は一昨年度、大学を1年休学した。あしなが育英会の海外留学研修制度を利用し、インドネシアの国立大学でティーチングアシスタントとして日本語と書道を教えていた。これまで送ってきた大学生活はもっぱら、コロナ禍で制限のある閉ざされた毎日だった。私は1年間のインドネシア生活にその有り余ったエネルギーを全て注ぎ、忙しない日々を過ごした。ぼんやりとした将来の夢を、くっきりと線を持った形にしてくれたのは、インドネシアで出会ったある友人の言葉だった。
学生時代の集大成としてあと1つ海外で何かできないだろうか。そんな漠然とした野望を胸の内に秘めていた私にとって、自ら遊学計画を立ててカンボジアへと渡航する本プログラムはとても魅力的だった。現地で暮らす人々と近い視線、温度感で「生」のカンボジアに触れたい。そして、私のできる「ケレケレ」を探して実行していきたい。そんな強い思いに駆られ、迷うことなく応募を決めた。
今回の24日間のカンボジア遊学では、前半15日間をシェムリアップ、後半9日間を首都のプノンペンで過ごした。
シェムリアップ
15日間、後藤 勇太さんが経営するJACE NGOs Academyでボランティアをした。カンボジアの学校は週6日、「半日制」を採っており、それぞれ登校時間が午前と午後に分かれている。そのため小学生から高校生までの11人の子どもたちが暮らすこの孤児院には、1日中常に子どもがいた。孤児院に残っている子どもたちのしたいことを尊重しながら、日本語や書道を教えたり、宿題を見てあげたり、編み物やお菓子作りをしたりした。また、住み込みで毎日3食の食事を作っているスライホンさんと市場へ買い出しに行ってごはんを作ったり、大きな樽を使って洗い物をしたり、草むしりやジャガイモの苗を植えたりもした。トゥクトゥクに乗って、毎日学校の送迎にもついて行った。
孤児院では平日(月曜日〜金曜日)の夕方1時間、日本語の授業が行われていた。初級・中級・上級クラスがあり、現役ツアーガイドとしても働くカンボジア人のワー先生が日本語を教えていた。先生のご厚意で、滞在中は授業を任せてもらった。ひらがなとカタカナをひと通り書くことができる子どもたちが集まる初級の授業では、「この子たちの字を綺麗にしてください」と先生に頼まれた。私は5歳のときから書道を始め、高校時代は書道部の部長として活動していた。幼い頃から字を書くことをこよなく愛す私にとって、子どもたちに字を教えることは、本当にご褒美のような時間だった。
目をキラキラと輝かせながら、私が持つ赤ペンの先の動きに釘付けになっていた子どもたち。彼らはほとんど日本語を話すことができない。
「シュッ」「トローン(クメール語でまっすぐという意味)」「ストップ!」「ななめに〜」「ながく、ながく」「スペース、スペース」。
なかなかうまく伝わらないもどかしさからか、私はいつの間にかオノマトペと様々な国の言語を使って教えていた。その熱意が子どもたちにも伝わったようで、私が使った単語を唱えながら、何度も繰り返し字を書いて練習していた。普段の生活の中では見られない、子どもたちのキリッとした真剣な表情を見られることは、「先生」としてこの上ない喜びだった。
ある日、いつもであれば書き終わったらすぐに私にノートを持ってくる子が、となりの子のノートを覗き込んでいた。何をしているのだろうと思いながら、私は少し離れて見守った。となりにいる友だちの書いた字を目で追い、「もっとながく〜」「もう1回!」と日本語の単語をつなげながらアドバイスをしていた。すかさずアドバイスされた子も相手のノートを覗き込み、アドバイスをしていた。私の視線に気が付くと、2人は満面の笑みを浮かべた。「私は小さいサヤカ〜」と言っていた。おそらく「教えている」という意味なのだろう。そんな2人のやり取りを見て、私は胸がいっぱいになった。スポンジのような吸収力を持つ子どもたちはメキメキと力をつけていった。ワー先生が「自分の字より綺麗かもしれない」と少し焦っていたくらい、見違えるほど字が上手になった。
日本語能力試験のN4やN5を持っている子もいる中級・上級の授業では、適宜子どもたちを当て、全員を巻き込みながら教えることを意識した。分からないところは素直に「分からない」と言える空気感、そしてその疑問を全体で共有しながら学びを深めていく1時間になるよう心がけた。何気ない小さなことも「いいね!」「すばらしい!」と褒めるようにした。これまでの塾講師アルバイトやあしなが育英会のラーニングサポーター(病気や事故、災害などで親を亡くした小・中学生を対象とした家庭教師ボランティア)の活動、インドネシアの大学で1年間日本語と書道を教えた経験がとても生きた時間だった。時より険しい表情を浮かべながらも、一生懸命文法の問題に取り組む子どもたち。無事正解すると、薄墨色の雲がスッと消えたように明るい笑みを浮かべていた。日を重ねるごとに「教科書1冊終わるまで教えたい」という気持ちが私の中に降り積もっていった。日々の授業を通して、子どもたちとの心の距離がさらに近くなったように感じた。
プノンペン
カンボジア大学を訪問し、聴講生として英語で行われているカンボジアの歴史や文化の授業に参加した。座学やディスカッションを通してカンボジアに焦点を当てながら学びを深めることができ、有意義な時間を過ごすことができた。学生たちは英語が堪能であり、随所でコミュニケーション力の高さが光っていた。
プノンペンはシェムリアップに比べ、交通渋滞がかなり深刻だった。道の広さに対しての乗り物の台数がとても多く、密集度が異常だった。トゥクトゥクや大型車、トラックやバイクがひしめき合い、交通整備の笛の音とクラクションが絶えず鳴り響いていた。横も前後も車間距離がほぼほぼ存在していない状態で、いつ事故が起きてもおかしくなかった。
休日にはトゥールスレン虐殺博物館とキリング・フィールドに行った。カンボジアの持つ負の歴史をたどり、どっぷりとその世界に浸かった。地面に残ったままの血痕や服の切れ端。窓枠に取り付けられた生々しい鉄格子と有刺鉄線。全体的に斜めになった今にも崩れ落ちそうな粗末な造りの狭く薄暗い独房。慰霊碑の中に入ると、性別や年齢層に分けられた頭蓋骨が上から下までぎっしりと並べられていた。緑豊かで野鳥の鳴き声が飛び交う場所であったが、自分の靴と地面が擦れる足音でさえも不気味に感じられた。
「今日からあなたも記憶の保管者です」ガイドの方の言葉が、今もまだ私の心の中で彷徨っている。今回のカンボジア訪問を通して、「平和報道に携わりたい」という思いがより一層強くなった。ガジュマルの木が成仏できなかった霊に休まる場所を提供するように、私もジャーナリストとして、戦争経験者や遺族の取材をしたい。その人たちの言葉を交えながら記事を書くことで「自分は大丈夫」という安心感の錯覚や包まれている現代の人々のくらしに危機感を添えたい。そこで生まれる読者の発見や明日を生きる活力、行動は持続可能な社会の実現に向けた大きな推進力になると信じている。
「また帰ってくるだろうなぁ」24日間のカンボジア生活に終止符を打ち、空港へと向かうトゥクトゥクに揺られながら、そんな気持ちに包まれた。どちらかと言うと、磁石のように引き戻されるという表現が近い気がする。私はこれまで7カ国ほど海外に行ったことがあるが、初めて感じた予感だった。
最後に、カンボジア遊学の半分以上を過ごしたシェムリアップの孤児院での日々に触れたい。毎日、朝から夜まで子どもたちと一緒に過ごした。私のひざの上に乗ってはペンを差し出し、「計算問題を出して」とお願いされた。彼女は日本語を話せないが、一緒に居すぎて私はなんとなくクメール語でも彼女の言いたいことが分かるようになっていた。いつもはおてんばな彼女も、このときばかりは真剣な眼差しで得意げにペンを走らせていた。私が丸つけをするたびに一喜一憂し、たまに間違えると「なんで?」とその理由を尋ねてきた。言語の壁があっても、気合さえあれば算数も教えられることを知った瞬間だった。
「咲野花にお願いがある」と言われ、書道の準備をしたあの日。板を手渡され、漢字でかっこよく「禰豆子」「炭治郎」と書いてほしいと頼まれた。ワードチョイスに思わず笑った。翌日彼女の部屋に行くと、枕元に2つの板がそっと立てかけられていた。彼女はもともと、ひらがなとカタカナが書ける子だった。毎日「禰󠄀豆子」という漢字を練習し、最終日には何も見ずに書けるようになっていた。初めて覚えた漢字らしい。
黄色くやや黄緑色に濁った湖で泳げない小学生の相手をしながら、中学生男子3人とお昼から夕方まで休む間もなく水中鬼ごっこをした日もあった。次の日はもれなく、全身筋肉痛だった。カンボジアの学校の体育の授業には「水泳」がない。そのため、幼少期からスイミングを習い、選手コースの経験もある私は、その日ばかりは子どもたちのヒーローだった。
カンボジアは雨季であり、さっきまでカラッと晴れていたかと思うと、突然バケツをひっくり返したかのようなスコールが降る日がとても多かった。雨音が聞こえてくると、誰かが走って2階に置いているシャンプーを取りに行き、天然のシャワーを楽しんでいた。
最終日、ぽろぽろと涙がこぼれ続ける私を抱きしめ、「いってらっしゃい」と言って送り出してくれた孤児院の子どもたち。私が見えなくなるまで全身を使って手を振ってくれていた姿が、今でも忘れられない。15日間という短い滞在ではあったが、その「15」という数字以上に、本当に濃い毎日を送ることができた。おそらく、これからもずっと色褪せない。最終日の夜、ひとりひとりに漢字の名前をプレゼントした。色紙の裏を埋め尽くすように、ひらがなでびっしりと書いた手紙を添えた。
子どもたちは何らかの理由があって、この孤児院で集団生活を送っている。日本で暮らす私にとっては、同じ時代を生きていることを疑ってしまうくらい、それぞれが抱えるバックグラウンドは強烈なものだった。彼らは今日も、底が見えないくらい明るく、力強く生きている。その背中は小さいながらも、とても大きく、たくましく見えた。
私は小学4年生のとき、母がステージ4の肺腺がんであること、そして「余命1年」と宣告されたことを知った。医療の進歩と新薬の開発の恩恵を受け、母はその後6年半の月日を重ねることができた。私が高校2年生のとき、母は天国へと旅立った。孤児院の子どもたちが味わってきた苦しみや悲しみと、私の経験とを完全に重ね合わせることはできない。しかし、子どもながらの様々な葛藤は大いに想像でき、心が揺さぶられ続けた15日間だった。
帰国後、しばらくして孤児院の子どもたちとテレビ電話をした。昨日も会ったかのような不思議な感覚に包まれながら、画面の向こうにいる子どもたちと話をした。
「咲野花、いつ帰ってくるの?家はここにあるよ!」
会話の途中途中にこの質問を織り交ぜてくる子どもたちを見て、とても愛おしく感じた。
自分のこんがりと焼けた小麦色の肌を見てはカンボジアでの生活を思い出し、余韻に浸る日々を過ごしている。ここから再出発。「ただいま」と言える日が来るまで、1日1日を大切に、頑張っていきたい。
第13期生 森 咲野花 福岡大学法学部経営法学科